惣菜コーナーの「ポテトサラダ」に「愛」はあるか

はじめに

ツイッター発で「ポテトサラダ論争」が起こっているようです。

高齢男性が、総菜コーナーでポテトサラダを買っていた幼児連れの女性に対して、「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言い放って立ち去った光景を目撃したことを述べたツイートをきっかけに、主に「そもそもポテトサラダって簡単に(手間なく)作れるのか」といった観点から論争が起こっているようです。

どちらにしても、この高齢男性の行動は好ましからざる振る舞いであるというのは、多くの方々の一致した意見のようですし、私のその通りと思います。

手間に感じるか否かは個人の感性により様々に違いない

ポテトサラダを手作りすることが手間だと感じるか否かは、個人の感性により様々であるのだろうと思います。

そもそも料理が好きな人なのか、好きではないが必要に応じてやっている人なのかでも感じ方は大きく違うでしょう。

多種多様な考えの人たちが集うこの世の中で、「手間だ」「いや簡単だ」と白黒つけることに大した意味はないと、個人的にはそのように思います。

私は食べなくなった

私(中年男性)は独身の時は惣菜コーナーのポテトサラダを普通に食べてましたが、結婚してから徐々に食べなくなりました。理由は単純で、妻の手作りのポテトサラダのほうが随分美味しく、両者には相当の差を感じる為です。

妻に作ってもらったら美味しいものを、敢えてそれより美味しくない「出来合い」を買って食べることに抵抗を感じて、食べなくなった訳です。

是が非でも妻に作ってもらう、という訳ではなく、事情により買って食べる場合は、ポテトサラダ以外の「そこそこ美味しいと感じるもの」を買えば済む話です。

美味しい総菜もある

例えばトンカツなら、これも妻の手作りのほうが美味しいのですが、総菜コーナーのトンカツでも結構美味しいものもあります。そういった総菜はトンカツ以外でも多数ある訳です。

もっと言うと、「これは妻の作るものより美味しいかもなぁ」とか、「こんなものは家では実質的に作れないだろうなぁ」というような美味しい総菜も中にはある訳です。

せっかく買う訳ですから、出来るだけそういったものを買おうと意識しており、すなわち「妻に作ってもらったり、もしくは自分で作るものより、明らかに美味しくない」総菜は出来るだけ買わないようにしている訳で、そんな中の一つがポテトサラダなのです。

手作りしない人は「愛」が足りないのか

とあるテレビ番組で、とあるアナウンサーが、総菜よりも手作りのほうに愛を感じる、というような発言をしたとかで、それも記事になっていました。

言いたいことは分かりますが、そのように感じるのか、それとも「食べ物が手作りか総菜かなんて愛の深さには関係ない」と感じるのか、これも「人それぞれ」としか言いようがないように思います。

また状況によっても「手作りではなく総菜」の意味が変わってくるでしょう。例えば私の場合で言えば、この数年間の妻は息子の部活の付き添いに忙しく(息子は主力選手だった)、更には(既に亡くなりましたが)近くに住む私の病気の母親の看病などもしてくれていて、それで時間に追われて「総菜」が増えたとしても、こんな状況で「愛が無くなった」とか思う訳が無い訳です。

ただ、私自身のことは良いのですが、息子には出来るだけ手作りのものを食べて欲しいと私自身が思っているので、自分でも作れるレパートリーを増やして、妻と息子が部活で遅く帰宅する日は私が出来るだけ手作りしていました。

おわりに

冒頭で述べた高齢男性の行動は「色んな人が居るので多様性を認めよう」では済まされないほど「人間としてダメな行動」であると思います。

一方でポテトサラダを作るのに手間を感じるか否かや、もしくは「総菜より手作り」に愛を感じるか否かなど、本当に「人それぞれ」で良いと思います。